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物語:死ぬ時くらい自由に

2017/08/06

殺処分ゼロを目指して多くの方々が活動している。
殺処分=人が殺して処分すること。
寿命がまだきていない動物を殺し処分する。
そう考えると、確実に死に近づいている動物を痛みや苦しみから解放するための安楽死は「殺処分」には含まれないだろう。

安楽死は日本人の感覚では受け入れがたいものだし、個人的にも究極の選択でなるべく避けたいもの。でも、寿命を迎える直前に保健所に連れて行き、「家族から捨てられた」と思いながら冷たい床で死を迎えさせるより、安楽死を選択する方がよほど犬にとってよい方法なのではないかとも思える。
(こういうことを書くと、一部の方から非難を受けそうだけど...)

もちろん、最後の日まで共に過ごすのがベストで、それ以外の選択肢はなくなって欲しいけれど、その理想には直ぐに近づけないのであれば、決して推奨する方法ではないけれど。。。

そして、犬が寿命を迎え死を受け止めようとしている時に人間の意思で過剰な医療行為を行い、「死の尊厳」を邪魔するのも控えるべきことだと思う。
宝島社の広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」は、人間だけでなく動物にもあてはまる。特に、人間に飼われている動物は「死」まで人間にコントロールされることがある。

今回は、老犬の物語。

目が覚めてすぐにチャッピーが生きているか確認に行くのが私の毎朝の儀式となっている。
チャッピーが横たわるベッドに近づき、チャッピーの鼻に指を近づけて呼吸を確認する。
今朝も生きていることを確認して、私の一日が始まる。
生きていてくれたことに安堵する気持ちの陰で、また今日も介護かと沈む気持ちが一瞬心の片隅を通り過ぎる。

チャッピーはもう自分では歩けない。自力で立ち上がることができないし、自分の体を自分の足で支えることができない。
なので、私がチャッピーを抱き上げ、四肢を地面につけてあげる。そしてそのまま腰を持って、後ろ足の代わりに体重を支えながらチャッピーが歩き回れるようにする。1日2回、前足だけ自力で動かしながら、ベランダでおしっことうんちをすませるのがチャッピーの活動の全てだった。
チャッピーの気がすんだところで、ベランダにあるベッドで一度休憩させる。その隙にチャッピーのお部屋を掃除する。
チャッピーはサークルで囲いを作り、全面にトイレシートを敷いて、その上で過ごしている。気分がいいと前足だけでズリズリと動き回り、動き周りながらトイレをして引きずるので、ヒドイ時はトイレシートだけではなくベッドも掃除が必要になり、チャッピーも洗わないといけなくなる。
トイレシートがはがれてしまうと、床との間にいろいろ入り込み、かなり落ち込む状態になるので、トイレシートをしっかり固定することがキーポイントだ。
トイレシートは1日2回全面交換する。
次は食事。自分では食べないので、病院で買っている介護食を口から注入する。
水はまだ自分で飲む。飲みながら水のボールから半分以上はこぼれ出てしまうけど。流水が好きだから水道から少しずつ水を流しいれながら飲ませる。水を飲んでいる姿を見ていると、「生きている」、チャッピーは「生きている」と思えて、気持ちが満たされる。頑張ろう、と気持ちが改まる瞬間でもあった。

数日前からチャッピーは尿がでなくなり、尿毒症だと診断された。
食餌療法や薬も何種類か試したけれど改善がなく症状はすすんでいる。
朝の運動すらできなくなり、おしっこも自力ではできない日が続いていて、このままでは最悪の事態も考えられる。
獣医で透析を勧められた。
透析をすれば、症状の改善が見込めるとのことだ。すぐには返事ができなくて、とりあえず家に帰ってきた。
どうしよう。
犬に透析。すぐにでもお願いしたいと思う気持ちと、チャッピーはもう寿命なんだから、と思う気持ちが入れ替わり、決断できない。
体が不自由になり、とうとう内臓も。
透析をしても、延命治療でしかないし、人間の場合だけど透析はとてもつらいと聞いたことがある。
15歳のチャッピーは透析したいのか。今の状態でももっと生きたいと思っているのか。
透析を断ったら私がチャッピーを殺したことになるのか。。。
透析で数日?数週間?数か月?延命して、寝たきりの生活を延長して、チャッピーはそれで喜ぶかな。。。

悩みながら、食事を済ませ、何となくチャッピーの様子を見に行った。

チャッピーは静かに、けいれんしていた。
声も音もなく、チャッピーだけがその空間で動いていた。揺れていた。

あまりに突然のことで、その光景を理解するまでに時間がかかった
(何時間もチャッピーを見つめていたような気がしたけど、ほんの数分)

獣医に連れて行こう。今すぐ透析を。
とまず最初に思ったけれど、けいれんしているチャッピーは人を寄せつけないような、今は触らないで、と言っているような、迫力があった。
私は待つことにした。
チャッピーが落ち着いてくれるまで。揺れているチャッピーを見ながら、チャッピーが子犬の時のことを思い出した。

初めて家に来た日。ソファーの後ろに隠れてなかなか出てこなかったね。
私たちに慣れて、家中走り回るようになって、網戸に気づかず突進して網戸に大きな穴を開けたね。
最初の冬に雪を初めて見た時は、玄関から出ようとしなくて、自分のバリケンに逃げ込んで出てこなくなったね。
でも、4歳の時に冬の新潟に連れて行ったら、自分から真っ白い雪にダイブして雪の中を泳ぐように走り回っていたよね。それ以来雪は大好きで、深雪に沈みそうになりながら、走り回っていたね。
水は大嫌いで、川も海も絶対に近づかなかったね。
お散歩中も水たまりは避けて器用に歩いていたね。
ご飯をもらっていないフリが上手くて、一日に何度もご飯をもらっていたことがあったね。
「チャッピー」っと呼ぶと振り向いて、右に左に頭を傾げてから、大きな耳をなびかせながら駆け寄って来たね。
日向で寝るのが大好きだったね。
寝ていることが多くなってきても、ご飯の時間になるとイソイソと起きてきて「ご飯ダンス」をみせてくれたね。
チャッピー、大好きだよ。

深い息、浅い息、浅い息。
けいれんが終わった。

チャッピーは死のうとしている。

私はチャッピーの頭をなでた。
いつものように耳をなでた。
首、背中、お腹、足、肉球、爪、しっぽ。
鼻先、目と目の間。

チャッピーは、大きく深い息をはいて、動かなくなった。
命が終わった。
チャッピーの目元に涙がにじんでいた。

 

朝起きて、チャッピーがいないと時間があまる。
散歩タイムだった時間が。
介護タイムだった時間が。
チャッピーのための時間が、ぽっかりと空いている。

チャッピーの最後の時、私は何もできなかった。
いや、しなかった。
ただ、そばにいただけ。
透析を即決していたら今もチャッピーは生きていたのかな。

あの時私が思い出していた思い出はチャッピーも見ていたように思う。
チャッピーは私にお別れを言っていて、私はそれを受け止めることができた。
幸せだった。
チャッピーも同じ気持ちだったと思う。

チャッピーの匂いが残るベッド。
そろそろ片付けなければ。
目が覚めたら最初にチャッピーがいた空間を確認して、私の一日が始まる。

 

 

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